空と救済

前回の投稿で、
般若心経、空という辺りが自分の人生のメインテーマと書きました。

まぁ、人生はすごく多角的なのでこれだけで自分の人生テーマといえるかどうかは死んでみないとわかりませんが、
少なくとも自分の人生にずっとついて回る問題であります。

般若心経で最初に記憶に残っているのは、
先先代住職である祖母から般若心経を教えてもらい、
「お経の一番最初は摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)と言うんだよ。」
と教えてもらったことに始まります。
その時はへんな言葉だなと思いましたがリズムが面白くて、
「はらみたしんぎょう♬イェイェイェイェーイ」
といって本堂で腰をふって踊っていた記憶があります。

それから中学時代に本格的に仏教や宗教全般に興味をもって勉強しだしました。
この理由はいろいろあるんですけどイジメの問題があります。
今思い出したけど、自分の中の精神的格闘の末にイジメを克服した時に、
空の青さっていうのがすごく胸に刺さる程に美しく感じたことを思い出しました。
この辺りの話はまた今度。

それから高校、そして短大に入学して大学に編入しました。
大学では宗教学を勉強することになりました。
なんで宗教学なんて勉強することになったかというと、
本当は心理学科に行きたかったのですが自分の学力を鑑みて試験直前に宗教学科に変更したのです。

それから卒業論文は般若心経にしようと思いました。
一番仏教で基本的でオーソドックスかなぁと思ったのが選んだ理由ですが、
ゼミの先生から
「般若心経は簡単すぎる、金剛般若経にしなさい。」
と言われたので金剛般若経について書くことになりました。

それで金剛般若経について勉強し始めたのですが、
このお経はたくさんある般若経典の中でも古い部類に入ることが分かりました。
般若経典って一杯あるんですよ。
それで勉強していくと、
大乗仏教運動が最初に起こり始めた時と金剛般若経の成立が近いということが分かってきました。
大乗仏教運動というのは自分の悟りを求める小乗仏教から、
もっとたくさんの人を救っていこうという所から始まった精神運動です。
そしてこの運動の精神に、
“菩薩”と”空”というキーワードが中心になっていたことが分かりました。

菩薩というのは、
小乗仏教において自分作りを中心にしていた悟りの境地である阿羅漢から、
人を救うという愛の心をもった菩薩の境地を大乗仏教では理想としたのです。

空というのは全てのものに実態はないとして何にも拘らないことをいいます。

ここで?(はてな)と思いました。
菩薩の定義はわかる。
空というのもちょっと難しいけど言いたいことは分かる気がする。
しかし空がなんで救いになるの?
大乗仏教というのは大変大きな精神運動ですが、
その運動のエネルギー源に空が本当になったのだろうか。
何ものにもこだわるな、とだけ言われて、
本当に大乗仏教がここまで大きくなるはずがない。
ある意味でオリジナルの小乗仏教よりも大乗仏教の方が発展していると言える。
できるだけ沢山の人を救っていこうという激しい情熱が運動の推進力になっていたと考えるべきだし、そんな風に本にも書いてある。
しかし、それじゃぁ空のどこに救いがあるの?
自分以外の誰かを救っていこうと思えるの?

その疑問は解けないまま大学を卒業し、
また社会人になっても疑問は氷解することはなかったのでした。

           つづく。

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