『楞伽経』 ~唯識と禅の交差点~

                                水谷香奈

1.『楞伽経(りょうがきょう)』とは?

・サンスクリット語のタイトルは『ランカーヴァターラ・スートラ(〔釈尊が〕スリランカに入られて〔お説きになった〕経典)』。成立時期は不明だが、5世紀前後?

・漢訳は3本

 劉宋(420-479年) 求那跋陀羅(ぐなばっだら)訳『楞伽阿跋多羅宝(あばったらほう)経』四巻(通称、『四巻楞伽』):

新国訳大蔵経中にあり。

  現代語訳は安井広済『梵文和訳 入楞伽経』(法蔵館、1976年)。

  部分訳と詳細な解説は、高崎直道『楞伽経』仏典講座17巻(大蔵出版、1980年)。

後魏 菩提流支(ぼだいるし)訳『入(にゅう)楞伽経』十巻(通称、『十巻楞伽』):国訳一切経中にあり。

唐 実叉難陀(じっしゃなんだ)訳『大乗入楞伽経』七巻(通称、『七巻楞伽』):国訳大蔵経中にあり。

・禅宗における伝承

 菩提達摩(ぼだいだるま)(達磨大師)が弟子の慧可に対して、『四巻楞伽』をより所にして修行するよう伝え、慧可も弟子たちに対して『四巻楞伽』を心要とするよう教えたという(『続高僧伝』)。五祖弘忍(こうにん)の弟子であった神秀(じんしゅう)(606-706年)の系統(北宗禅)で研究されるが(『楞伽師資記(しじき)』など)、 六祖慧能(えのう)(638-713年)が『金剛般若経』と縁が深かったこともあり、その後の禅宗ではあまり注目されなくなる。

 →禅宗内の事情に加えて、漢文が極めて難解であることも理由の一つではと言われる。

・思想の特色

 ストーリーはなく、さまざまな大乗仏教の教えが雑然と詰め込まれている。

中でも中心になるのは、唯識説と如来蔵思想の結合。

2.唯識の基本と如来蔵思想

・唯識思想とは?

世界のすべては識(心)から生まれる。心がこの世界の根源である。

・心の重要性

心はさまざまに動き、なかなか抑制することができない。欲望(煩悩)に付きまとわれる。

→心は輪廻の重要な要因の一つ。一方で、「増ぞう支部しぶ経典」(初期仏教経典のひとつ)には「この心は光り輝くものである。それは偶然的な煩悩によって汚されている」という仏説が見出される。部派仏教のグループの一つである大衆だいしゅ部はこれを支持しており、心の清浄性は般若経典などの大乗経典にも見られる。

→とはいえ、煩悩を消すことは容易ではない。私たちの心はどのようなメカニズムでさまざまな迷いを生むことになるのか、そこから抜け出るためにはどのような段階を踏めばいいのか、それを体系的に説明したのが唯識思想。この思想を作り上げたグループが瑜伽ゆが行ぎょう唯識派(中国以東では法相ほっそう宗など)。

・唯識思想の八識説

 初期仏教以降、心(精神的な作用)については大きく6種類に分けられてきた。

  五感に対応した五つの精神作用(神経に近い):眼(げん)識、耳(に)識、鼻(び)識、舌(ぜつ)識、身(しん)識(前(ぜん)五識)

  五識をまとめて分析・思考する精神作用:第六意識

 唯識思想では、そこにさらに無意識の領域の心のはたらきとして2つの識を追加する。

  第七マナ識:『四巻楞伽』では「意」と呼ばれ、明確な役割は書かれていない。唯識思想では、アーラヤ識を真の自己と錯覚する自我意識を指す。

  第八アーラヤ識:『四巻楞伽』では「心」と呼ばれている。アーラヤは「蔵」という意味。あらゆる存在を現し出し、業(カルマ)や煩悩なども含めたすべてを生み出す根源的な心。

・第八識とその他の七識の関係

 「蔵(ぞう)識(しき)の海は常住なるも、境界きょうがいの風に動かされ、種々諸識の浪、騰躍(とうやく)して転生す。」(高崎p.92)

 アーラヤ識(蔵識)とそれ以外の七識(諸識)は海と浪の関係にたとえられる。両者は本質的には一つ。

境界(外界・自分自身など、私たちが認識する対象すべて)という風がアーラヤ識に接触すると、波が立つように七つの識(七転(しちてん)識(じき))が起こって、私たちは対象に対してさまざまな思い・行動を起こすことになる。それがすべてアーラヤ識に記録され(熏習(くんじゅう))、また次の心のはたらきや、更なる輪廻を引き起こすことになる。

ただし、風と海のたとえではあるが、実は風である境界そのものがこのアーラヤ識によって作り出された(現し出された)ものだと唯識説では説いている。七転識は、心が作り出した世界をそのまま客観的に実在するものと誤認して、執着してしまう。

  →この心のメカニズムを知り、あらゆる存在が自分の心の現れなのだと覚さとっていくことが大切。

・第八アーラヤ識と如来蔵

「如来蔵は自性清浄にして、三十二相を転じ、一切衆生の身中に入る。大価だいげの宝の垢く衣えに纏われる如く、如来の蔵の常住不変なるも、亦また復また是かくの如し。」(高崎p.314)

 如来蔵(タターガタガルバ)=直訳すれば「如来という本性・本質」=仏性と同義

仏の視点から見た表現であり、修行段階にある人々に、すでに仏となる可能性、あるいは仏と同じ性質が秘められているという意味。

  『楞伽経』では、この如来蔵とアーラヤ識が同じものであると説く(=自性清浄心)。

3.『楞伽経』が伝えたいこと

・一切仏語心

 一切の仏陀の言葉の心髄=『楞伽経』が伝えたいこと

① 八識説などの唯識の教理

② それを確信していくための実践(=禅定)

③ あらゆる存在が心によって現し出されているという真実

④ この真実が空そのものであること

禅定という実践を通してこそ、大乗仏教で説かれる「空」という真理を直観的に体得できる。

この「仏語心」は、馬祖道一(ばそどういつ)(709-788年)が達磨大師以来禅宗の求めてきた内容を、『楞伽経』に言及しながら説明したときに述べた言葉でもある。

・自覚聖智

 『楞伽経』で説かれているのは、如来が自ら覚られた境界・智慧である。これは誰かが覚らせてくれるものではなく、必ず自分自身が努力して修行した(=禅定の)結果、獲得しなければならない。

・如来一字不説

 如来が自ら覚られた境界・智慧(私たちの心の本質が如来と同じであり、その心が万物を現し出し、しかもそれらがすべて空であること)は、究極の真理であり、本来言葉では表現できない。それを経典では、「如来は覚られてから涅槃に入られるまで、ただの一字もお説きにならなかった」と表現する。その意味では、『楞伽経』の教えそのものもまた一つの「方便」に過ぎない。

 →禅宗の主張する「不立文字」「教外別伝」の教理的根拠となっている。