仏教でいう”空は”どうして救いとなりえるのだろうか?
これは私が学生時代から抱いていた疑問です。
空(くう)というのは仏教の基本的な教えとしてご存知の方も多いと思います。
この世のすべての物は実態がない、空っぽなのだ、ということです。
なるほど、私たちが在ると思っているものも、
実際は原子と原子がくっついて存在しているだけであって、
それらは仮に今存在しているに過ぎない。
私たちは仮に存在している物であるにもかかわらず、
車やら異性やらに捉われて執着を作っている。
これはいけない、と。
そんな程度の理解だったのですが、その中でどうしても疑問だったのが、
なぜ、空がすべてはからっぽであるという教えであるならば、
大乗仏教運動の思想的ベースとなったのか、ということでした。
今は大乗仏教、小乗仏教という呼称は使わないということですが、
個人の悟りを求めていた仏教教団に対して、
「いやいや、自分の悟りばっかりよりも、大衆救済が必要じゃないの?」
と言って始まったのが大乗仏教です。
その大乗仏教徒たちの思想的なベースとなったのが”空”であると習いました。
でも私の中でどうしても
空と大衆救済が結びつかなかったのです。
だって全てからっぽで実在しないなら人を救う意味ってあるの?
まして大乗仏教という世界を変える程の大きな運動のエネルギー源になるには、
相当な情熱に裏打ちされる必要がある。
「空!!」とか言っていてそんな元気でるかな・・・。
私にはお爺ちゃんが縁側でお茶でもすすりながら心穏やかに座っている、
そんなイメージに空を捉えてしまうのです。
やっと最近になってこういうことかな、と判ってきました。
空というのは”縁起”のことでもあるのですね。
この縁起についても説明しようと思うと簡単に一冊の本になってしまうと思うのですが、
つまりこの世界というのは相互に関わり合って存在している。
自分の知らないところで、例えばお百姓さんが稲を育ててくれるからご飯が食べられる。
そういった因縁によって作られている世界を直感的に感じる時に、
生かされている自分、圧倒的な愛を感じ、深い深い感謝の心が沸き起こってくるのですね。
まさに圧倒される程のエネルギーを感じる。
自分もその世界の一人と感じた時に、自然と他の誰かを見捨てられないという気持ちにつながっていくんじゃないか。
そんな風に最近は思います。
カントの霊訓 読みました
幽界 四次元世界 について書かれていました
この世は三次元 三次元の学びが終わると四次元世界に還ります
四次元の生活は
地上生活の想念が拭い去れないと
三次元と同様の生活を創り出し
暮らしているそうです
違いは
ほしいものはなぜかしらないがそこにあるのだそうです
最初は不思議に思うのですが
しだいに当たり前になり 便利にくらしているようです
四次元の原理なのです
この世は
まず思う
そして創り出す
創り出されたものはある期間存在する
あの世は
思うと存在し
思わなければ 消える 無
という世界
これを仏教は空と表現し
そして空即色 色即空
色 現れたものと空は同じと表現
苦しみも同様 思いがつくったものとして
手放せば消えるとし
人を救うベースとなった
カントは哲学者で仏教的ではなく
説明されていますが
仏教もその四次元の原理を
説こうとした存在だと思いました。
ありがとうございます。リサ・ランドールという科学者が次元について本を書いて、私も読みました。自分たちの日常の認識が全てではないのだと感じます。また仏教学者の鎌田茂雄先生も「般若心経講話」の中で五次元空間と観音について書かれています。色即是空の世界はまた奥深いものだと感じました。
無になりたいです。
どらっちさん、お久しぶりです(*^^*)また、明日にでもちゃんと返答させて頂きますね。よろしくお願い致します。
無、つまり雲ひとつない青空のような心になりたい、ということですね。なかなか人生、そういかないですね。私自身も雲ひとつない様な晴天の日というのは少なく、曇りだったり、雨だったり、時には雹やあられが降ってきたり、そんな心境です。でも、大切なのは、そんな自分もまた許されていると感じることではないかと思います。本当に、はるかな過去からずっと許されて、愛されて自分が存在しているのですね。その許されている自分を感じるのも、縁起だと思うんですよ。仏教の縁起は結構奥深いです。そういう生かされている自分というのを感じたら、それは自分だけでなく、生きている者みな生かされていると、そして、すべての、山川草木悉有仏性といいますけど、すべてに仏性があると、それを頭だけでなく、心で感じることができれば、本当に青空のような心になれるのではないかと思います。まぁ、難しいですけどね。生きている以上は。