金剛般若経における菩薩の考察

ずいぶん仰々しいタイトルですが、
私が大学生の時の卒論のタイトルが「金剛般若経における菩薩の考察」でした。
現在その卒論はどっかに行ってしまってみつかりませんが、
今でもこの卒論を書くにあたって勉強したことは私の中で生きているなぁ…と時々思います。

金剛般若経というのは、
おびただしい数の般若経典群の中の一つですが、
かなり初期における般若経典の一つです。
あっ、般若経典というのは般若心経だけでなく数の多い経典群なのです。
そして般若経典は大乗仏教の中心的な経典だと言えます。
般若経典は「空」という思想を中心に説かれているのですが、
金剛般若経においてはまだ空という言葉が出てきません。
そういう原始的な空思想が説かれているのですが、
その金剛般若経に出てくる菩薩を考察することで大乗仏教運動の本来の意味を見ていこうという趣旨でした。
小乗仏教では主に阿羅漢(個人的完成)になることを主軸としていたのですが、
大乗仏教では菩薩(利他中心)に修行者の理想像が移っているんです。
その利他、つまり慈悲、愛を重視する菩薩と、
空思想がどうしても私の中でリンクしなかったんです。
なぜかというと、空思想は一つ間違うとニヒリズムになりかねないからです。
すべてのものに実態がないと説く空思想ですが、
それがどうして利他的な運動の中心的エネルギー源になっていったのか、
これは非常に疑問です。
なんとすれば六師外道の中にも似たような思想を出している人がいますが、
どうして仏教的な空は正道だと言えるのだろうかと、
そこは結構疑問でした。
大学生の時点ではこの疑問ははっきりわからなかったですね。
今でも完全に説明はできないのですが、
空というのは単なるニヒリズムではなく、
縁起思想と絡み合っているということが一つあると思います。
つまり本来実態のないものが現在の形で浮かび上がってくるのは多くの縁があってのことだということです。
それにプラスしてやはり空思想にも万物を育(はぐく)み育てたいというベクトルがあるのではないかということ、
それは地球の自然システムや宇宙の構造を見ると、
やはり明らかにこの世界を育む愛の思いを感じるからです。
単に縁が重なり合っただけでは世界はこんなに素晴らしくなりません。
それに気づいた時に、または実感した時にくる深い感謝の心が、
利他の行動原理になるのだと思うのです。


今回は論文の内容をバァーっと簡単にして書いたので、
ちょっと分かりにくかったかも知れません。
しかし、現在の私にとっても非常に重要なテーマだったなと、
確かB評価でしたが、
あの時あの論文書いてよかったなぁ、為になってると心から思うのでした🙇

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